昭和45年8月20日
夏季大祭における教話
ただいま、薬院の教会長先生、杉尾先生から実に懇切丁寧に、人間が真実助かって行くことの為に、しかもそれが、え~人間と身代と達者のおかげを頂きながら助かって行く。もう一言一言が、その助かって行く一つの要諦といったようなところを、あのように噛んでふくめるように教えを頂きましたですね。本当に有り難い。え~、人間の真の助かりと、金光教の信心と、いったような、まぁ言うならお話だった訳でございますよね。本当にあの、助からなければいけません、ね。
え~、先月でございましたか、親教会のお月次祭にお参りさして頂きましたら、親先生のお説教の中にね、今月の御本部への月参りをさせて頂いた時のお話しをなさっておられす、その月の。でこう、親先生、金光様へお礼お届けをなさろうと思うてここへ出られましたら、ある方が金光様から、懇々と御理解を頂いておられた。その横で、その事を、まぁ御祈念をしながら、耳を金光様の御理解の方へ、こう傾けて、そのおられた。そしたら金光様がね、このような事を、こう御教え下さっておられた、ね。「何事も有り難う有り難うに受けて行かんと、物事が成就いたしません」と仰った。ね、何事も何事も、有り難う有り難う受けていかんと、ね、物事が成就いたしません。私はもう、これを頂いた時ですね、本当に何かこれにビリビリッとするものを感じました。ね、だから今日、先生がお話くださった、いわゆる(徳げん?)の姿勢といったようなことは、そういうような、私は頂き方だと思うです。
ね、何事も何事も、有り難う有り難く頂いて、そこにね、物事が成就するとこう仰る。もう本当にその、それなんです、ね。お互いどうでしょう、おかげを頂ききらんハズじゃん、有り難かったり有り難くなかったり、ね。有り難いと言うたり不平不足を言うたりだものね。これではね、いわばおかげが成就しておりましても、もうまた崩れるです、ね。だからそこんところのね、姿勢というかね、その根性をね、もう本当に有り難く有り難く頂いて行く、ね、そこのところの工夫、研究をしなければならない、中々出来ません、ね。けれどもね、分かれば分かるほどです、実を言うたら有り難う有り難う頂かなければね、実を言うたら馬鹿らしい、ね。馬鹿らしいなどという言葉でもまだまだ足りません。ね、勿体ない。ね、そこで金光様の御信心はね、すべて一切のこと、私なら私の周辺に起きてくるその全てを、合掌して受けて行くという事だと、私は思うです。そのけいこなんです、ね。
今朝からあの、朝の御祈念の後に頂きます御理解は、ね、『信心は大きな信心が良い』ね、『小さな信心では迷いやすい』ね、『一心と定めい』、という御理解に基づいて頂きました。誰だって、その大きな信心をすりゃ大きなおかげが受けられる事ぐらいなんかわかってる。そこで、天下国家のことを祈るとか願うとかといったような事ではない、大きな信心とは。始めから一足飛びにおかげ信心ごたるとは出来るはずがない。そこでね、小さい信心でもいい。けれどもその、小さい信心がね、一段一段、私は大きゅうなって行かなければいけないと私は思うです、ね。
私はこの祈願祭を奉仕させて頂く。この頃、毎月、その月の焦点と、先月は修行月、祈念力を作るというようなところに焦点をおいてお互い信心のけいこをさせて頂いた。今月は、祈願祭の月でもございますから、いわゆる願い月として、おかげを頂いた。
願いに徹する、ね、願いに徹する。その願いというのは、賀びを以って根とするという願いだ。だんだん私共の我情我欲的な願いから、ね、神様が願いなさるような、ね、神様の願いが成就する事のようなおかげを頂く事のための願いに、だんだん高度化して行かなければならない、という事でございます、ね。
ところがです、もう本当に願いに徹しておったんです。ところが、あの台風。それから次々、それから起きてくるいわゆる大祭4~5日前からのことを、あれやらこれやらを思わせて頂きよりますとね、もう本当にこれは願いもさることながらね、これはお詫びをしなければ、とても先には進まれんという気がいたしました。
あの~仏教の、親鸞聖人様はね、世の中の全ての事がこの親鸞一人の為にあると言われた。悪い事でも何でも、親鸞私が悪いからこういう悪いことが起きて来るんだというような頂き方なんです。ね、だから持ったおかげもガバ~ッとおかげを頂かれる。私もそういう気がした。もう今度は、ここの信心信奉者の方たちの上に、今度の被害が非常に大きかった。屋根が飛んだ、家が半壊になった、ね。もう、さまざまな、そのお届けを聞かせて頂きながらです、はぁもう私の信心が足りなかったと、もうその事をですね、本当にお詫びにお詫びしぬかせて頂いた、ね。このお詫びがね、許されない限り祈願祭に突入は出来ない、そんな気がした。
ところが昨日はね、朝の御理解にその、恥ずかしいといや羞恥心、人間が持っておる、ね、恥ずかしいという心。、ね。恥ずかしいというその心がね、神と交流する時なんです。まぁ思うてみるとね、子供が言う事を聞かんという事でもです、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてからもう、本当に下を俯いとるような、たいような、昨日は一日だった。いわゆるお詫びから続いて恥ずかしい。ところが神様はね、ありがたいです、ね。詫びれば許してやりたいのが親心と仰るし、ね、私共がね、もう恥ずかしゅうして、もう親の前には出られんとこう、しとりゃぁ、もうそげん恥ずかしがらんで良か、早よぅちょっと、来んのと言うて大きくそれを抱えて下さるような思いが、昨日の前夜祭を仕えさせて頂くと同時に頂けた。
はぁ有り難いなぁ、神様の願い、思いはここにあったのかと、私思うた。夕べは何とはなしに、もうとにかく前夜祭に出る前に私は、「もう今日は私は眠うして眠うしてこたえん」と言いながら、ここへ出て参りました。そして、御祈念の座に着かせて頂いてからです、神様に、いよいよ、まぁある意味、用意万端整いましたが、明日はいよいよ祈願祭を奉仕させて頂きますが、という事をお届けさして頂いておりましたらね、あの私の、心の眼に映ずるのがね、ちょうどあの、鼓をこのような風に持ってね、今にもこう、鼓を打とうとする姿勢を頂いた。もう途端に私の心の中がね、それこそあの、生き生きとした血で蘇る思いがいたしました。
ね、皆さんあの、鼓というのは千鳥がけていうのがしてありますよね。ね、たとえば、千鳥がけというのは、右と願っても左、左と願っても右と、というようにです、このような、例えば状態の中に、しかもその上、胴をしっかりあの、締め上げられてあるのです。だからこそ、あの鼓が良い音色を出す。それが今日のお祭なんです、ね。今日、良い音色が出たかどうかは、まぁ別と致しましてです、ね、そういう良い音色のおかげを頂かせて下さる事の為に、詫びに徹しさせて下さった、恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてという、自分自身を見極めさして下さった、ね。ですから、私はなら、昨夜のお祭の後に皆さんにお話し聞いて頂いた。ね、神様はいつの場合でも、ね、より良い信心を与えようとして下さってある。より力を与えようとしておって下さる。より素晴らしいおかげを頂かせようとして下さってある。ね、もう一切そうなのだ。痛い事も痒い事も、ね、情けない思いをする事も恥ずかしい思いをする事も、もう一切、より力を下さろうとする神の働きであり、よりおかげを下さろうとする神様の働きであるという事が分かる時にです、その事をどういう姿勢で受けるか、いわゆる(徳げん?)の姿勢を持って、受けられるのでございます。
ね、いわゆる三代、現金光様が、親先生がお聞きになってみえて、お月次祭でお話くださったという、ね、何事も有り難う有り難うに受けていかんと、物事が成就いたしませんというのがそれなんです。ね、何事も何事も、ね、有り難う有り難うに受けて、この事は有り難いけれども、この事は有り難くないというような事であってはならない。ところが、実を言うと、私共の場合はです、有り難くない事もあるけれども、さぁこの有り難くない問題をです、御神意がどこにあるか、ね、その御神意を分からして頂き、それをがっし、いわゆる合掌して受けて行く為には、というところに信心のけいこ、いわゆる焦点がおかれる、ね。
皆さん、その親先生が教えて下さった金光様のお言葉という、ね、何事も何事も、有り難う有り難う受けてゆかねば物事が成就いたしません。お取次ぎを頂いてお願いをして助かったといったようなもんじゃいけません。ね、今朝から私は皆さんに申しましたがです、金光様のね、御信心を頂いておれば様々な事があるです。ね、いや信心を頂いておればじゃない、信心を頂いておっても頂いておらなくても、やはりある事はどんな事でもあるという、雨も降れば風も吹くんだと、ね。けれどもそれをです、有り難う有り難う受けて行く、いわば道というか、ね、そのことわけという事を頂くのです。そしてこの世の中には恐い事もなからなければ、困ったということはないのだと。ただ私どもの迷いが、困ったというのであり、または、難儀を感じておるだけのこと。だから、信心が、いわゆる(徳げん?)の姿勢を持ってそれを受けるけいこさて頂いておるうちにです、一切が神愛であるという事が、だんだんわかってくる、ね。
私共の信心が一段一段進んで行く。ところが一段一段進んでいかない、ね。え~、いうならば、なるほど様々な難儀の中にあっても、それをおかげを頂いては行くけれどもです、有り難う有り難う受けていないから信心がいつまでも堂堂回りなんですよ。ね、お願いしますお願いしますて、おかげは頂いても、それはね、いわゆる一段一段大きな信心になって行かない。ね、だからそこんところを私共は様々な事に直面する度にです、それを合掌して受けて行くというほどしの信心、またそれを受けられる信心。だから、事があることの度に、一段一段信心が大きくなっていく。いよいよ大きな信心になりゃぁ、絶対行き詰まりがない、ね。為にはそこに一心と定めいと、教えておられます。
ね、そこんところを、もう神様のお働きの中にはです、ね、決して氏子が憎いからなどというような事はないんだと、とりわけ信心をさせて頂く者の上にはです、そういう、例えば事の場合でも、よくよく自分の心を落ち着けて、その難儀なら難儀の周辺を眺めてごらんなさい。はぁおかげだという事が必ずあります。今度ここで、ずいぶん、いわゆる被害にあった方たちのはな、お届けを聞かせて頂いて、有り難いなと思うんです、その一つ一つがそうなんです。例えばこの総代さんの、久富繁雄さんとこのなんかは、大きな麦藁屋根ですよ、それに西側からバ~ンと入った風が東側の方の屋根を全部、(たけぐも?)持っていってしもうた。ね、それこそ信心の薄い者やらは、信心しよってどうして、お父さんばかりは毎日毎日、夜参り日参りしよってこう、やっぱり孫達は・・・
( テープ切れ )
信太郎